考えないで得られる豪華さ


英語にluxury(豪華さ)と言う言葉があって、私はこの言葉が好きです。普通豪華と言えば豪華な外車、豪華なマンションを思い浮かべますが、私の場合はスマホを持たないで公園を歩く時に感じるluxuryと表現する。スマホから入る一見便利な情報を見ないで、公園の広い空間と自然から得られる喜びをいっぱいに浴びる豪華さです。

では神経症との関連ではどうか。神経症では人は強迫的に考えっ放しになっていて、それが絶対に必要と考えています。しかしこれを否定して強迫観念との対話を遮断したらどうなるか。私が経験から学んだのは、考えないことによるluxuryが突然現れたことです。人間は考えるから豊かな人生が実現するのでなく、考え過ぎるから豊かな人生を失うのです。

私の場合、考えないことにより得られた豪華さは対人恐怖、異性恐怖の苦しみが消失したことでした。今まで30年間もどうしたら治るかを毎日考え続けて来て、それを止めるなんて考えたこともなかったのですが、一度決意して実行したら体がいきなり軽くなったのです。一日中座って考え続けるのが当たり前の生活でしたが、気が付くと立ち上がって、何かの雑用を処理していた。

以来、確かに自分が変わったとは感じていましたが、対人恐怖が消えるなんて思いも及ばないわけで、ある日に気が付くとあれほど深刻な対人恐怖、異性恐怖の苦しみが消失していたのです。消失とは恐怖の対象を乗り越えたのではなくて、興味を失い、いつの間にか忘れてしまったと言うことです。

ああ、自分は人間が変わったとだけ感じて、歳はまだ48歳で体力、気力とも十分であったから何かしようと思い立って金儲けを開始した。
今までは神経症のため忘れっぽく、決断不能で勘も働かずで劣等感の塊となり、社会の落伍者であったのですが、いきなり物が見えるようになった。あの当時、自分は対人恐怖で普通の仕事が出来ないので2tonトラックの運転手をしていまして、バブルがはじける前で日本は景気がよく、十分な収入を得て、かなりの部分を貯金に回していました。

神経症者は毎日考え続けるから解決できると考えていますが実際は逆で、考えれば考えるほど恐怖は強化され、強化された恐怖が更に考えを要求すると言う心理的遠心分離機の状態で、その遠心分離機は間もなく巨大な遠心力に耐えきれずに振り切れてしまうのです。

この無駄な回転を薬の力を使ってでも停止しないとならないが、これを説く医療はないし、神経症者はむしろ回転阻止を叫ぶ斎藤を全力で排除しようとします。

似通った現象は拒食症にも見られるでしょう。拒食症では周りがいくら食事を勧めても彼らは食事を拒否します。命に関わっても食事をとらない。当然異論を唱える人がグループに紛れ込もうものなら袋叩きに合う。彼らにとっては拒食こそが正しく食事を勧める周りは敵なのです。

そんな袋小路を打開するには科学に登場してもらわなくてはならないのですが、過去25年間科学の進展は極めて遅く、アメリカ国立精神衛生研究所の元所長インセルも「精神病遺伝子を求める過去20年の研究は失敗であった」と率直に認めていた。多少関連のある遺伝子を発見したが、決め手にはほど遠く、そのためか、新聞を見ても最近は遺伝子と脳科学関係の記事が少ない。インターネットが始まって間もない2000年当時に比べて、精神病遺伝子発見の期待は冷めてしまったのです。

結局、問題解決は自分でやらなければならない。心の病の治療は極めて難しいのは誰でも分かっている。ただその中でも神経症は統合失調症、躁鬱病より余程扱いやすい。

私はある躁鬱病の人とこのホームページでしばらく意見を交わしたことがあるのですが、彼の躁状態の時の酷い事、頼みもしないのに自分の写真を送って来た。そしたら彼の顔写真のサイズが画面いっぱいであったのには驚いた。また、株でもうけるのだとばかりかなり株を買ったらしい。間もなく鬱に落ちて、今度はよれよれの落ち込み様で、その変容ぶりは同じ人間かと疑うほどでした。統合失調症なんかも明らかに脳が物理的におかしいと感じるし、拒食症では命に関わる。

それに比べて神経症は比較的扱いやすいのです。治療にはかなり困難を伴いますが、まるきり不可能ではない。そのまま強迫観念との対話に耽っていると人生は最悪になりますが、強迫観念との対話を停止するだけで一気に健康な世界に戻ります。考えようによっては神経症ほど簡単に治る心の病はないのではないでしょうか。



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