「無」とフロー

先日「静かな目」と題して翻訳を完成した。この記事はスポーツ選手が試合で追い込まれた時、冷静に対処し負けゲームを優勝に導く「目」の動き追っている。
尋常でない精神的圧力の下、正確に相手を見る眼差しが「静かな目」であり、選手は事態を冷静に把握し、玉を打ち返す。この心の状態を英語でフローと表現していた。あるいはin the zoneとも言う。

日本語で最も近い表現は「無」ではないかとその時に感じた。神経症者がしばしば言う集中とは違う。フローとは心が流れている状態であり、流れの中にあって心技体が一致する神秘的一瞬です。生理的にも変化し、心臓の鼓動は遅くなる。洋の東西を問わず、熟練の技能を打ち出す瞬間は「無」でありフローであり、決して集中ではない。

私は過去およそ20年に渡って神経症を治す方法として「無」を強調している。無とはゼロではあるが、心のないと言う意味でなく、一か所に停滞せず流動していると言う意味だ。心が流動しているからこそ、一瞬の状況の変化に脳は対応出来る。

無為療法の雑用をしている最中も、心はフローであり「無」なのです。雑用とは掃除、洗濯、炊事のような体が覚えている単純作業だ。この動きの中では,不思議に強迫観念は消滅していて心は自由空間を遊んでいる。時々不安、恐怖がよぎるが、それは一瞬で、次の瞬間には心は別の場面に移っている。神経症特有の追い詰められた恐怖、不安はない。

フローとは神経症外側の世界であるが、宇佐先生が言うところの神経症完治ではない。完治の表現は,余りにも現実離れしているので私は極力さける。完治に近い状態になるには、神経症外側の滞在時間が10年に及ぶ必要があるからだ。

所で、何故雑用をすると強迫観念が消えていくのであろうか。私は、筋肉は脳から命令を受けるだけの組織ではなくて、逆に脳に対して制御信号を発している組織と最近考える。即ち、脳と筋肉の命令系統は片道ではなく、双方向で互いに影響し合っている。これにより両者のバランスが保たれ、よく動く健康な人では、神経症者のような意識の暴走を経験しなくて済むのであろう。

ここで神経症者は一足飛びに運動したらどうだと考えるに違いない。運動は筋肉を持続的に使うが、余りお勧めをしない。確かに座りっぱなしより良いが、神経症と言う意識の暴走を止めるには方向がそっぽを向いているからだ。

雑用をするとは、考える必要がない動作をするという意味です。即ち無意識が活躍する晴れ舞台なのです。無意識が活発に作動し始めると意識の暴走が止み、意識は本来の流動状態にもどる。

雑用を継続的に5年、10年やると、雑用と一般活動、仕事との境目がなくなり、全てが雑用に見えて来る。このような生活を続けていると、ある日、「あれ、自分は神経症であったはずだ。対人恐怖は何処に行ったのだ」とふと気付く。何故30年間も対人恐怖に拘ったか、何故若い女性との素晴らしい会話に拘ったのか不思議に思い、結局自分は狂いの中にいたのだの結論に到達する。



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