無意識の威力

私は若いころ、神経症の影響もあって転職を頻繁にした。その頃経験したのは、仕事には楽しくて自分でも自信のある仕事と、内容は簡単なのに、いくらやっても上達しない仕事の二種類あるのに気がついた。当時から、無意識のようなものがその背後にあるのではと思っていたが、最近、無意識が決定的役割をしているのに気がついた。

無意識とは、フロイトのような何か空恐ろしいものではなく、意識と言う黒板に書きだされない情報処理全てを意味する。故に、無意識には呼吸、ホルモンの分泌から心拍決定まで、生命の基礎を担うものから、好き嫌い、第六感、一瞬の動作を決めるものまで、我々が気がつかない脳の命令全てを含む。

以前、鈴木に入院していた時、夜、カルタ遊びをして過ごした。不思議な事に、毎晩カルタ遊びをしても一向に斎藤は上達しなかった。何時までもカルタの位置を覚えられないのだ。子供の頃の将棋も、他の子供の将棋を見ているのに、将棋のルールが覚えられない。また、私は運動神経が全くダメなほうで、友達と野球をしても、ボールが打てない、ボールをキャッチできないで、野球を好きになる事はなかった。従って、ルールを覚えない、野手の位置も分からない、ピッチャーがわざと打ち難いボールを投げる意味も分からなかった。

このような苦手意識と一向に学習しない脳の関係には、無意識が絡んでいると斎藤は最近見ている。無意識とは人間の行動を背後から操る糸で、恐らく90%位、我々はこの糸に操られている。斎藤の場合は、無意識は野球を排除していたし、将棋も排除していた。排除の命令を受けた脳は野球のルールを学ぶことを拒否し、将棋のルールの学習も拒否した。だから、何年やっても金の動き、桂馬の動きが分からない。

仕事の選択にも同じ論理が働いているのであろう。人生最後の転職で、55歳の時に掃除のアルバイトをしたことがあった。余りしたくない仕事であるが、生存のためにしようがない。しかし、いくらやっても仕事の段取りが覚えられない。自分が今ビルの何階を掃除しているのかもつかめないという事で、間もなく退職を余儀なくされた。これも同じ理由で、無意識が掃除の仕事を拒否していたのであろう。

脳の中には危険を察知する中枢、好き嫌いを判断する中枢があると思う。危険の察知は動物の生存を保証するし、好き嫌いを判断する中枢は、生きる上での無駄を省く役割をするだろう。これ等の感覚は進化により獲得したものだから、合理性があり、意識以上に力があって、普通の努力では克服できない。また、好き嫌い中枢は、脳全体とネットワークを形成していて、中枢に向かって過去の学習情報、体の物理的特性なども送り込まれているだろうから、生半可な意思の力ではかなわない。

たぶん、斎藤が経験したことは、大なり小なり誰にも起きている。では、どうやってこれに対処したら良いだろうか。
解答は無意識を尊重することだ。何時までも意思に拘らないで、ダメと分かったら、いち早く方向転換するべきなのです。斎藤の場合、将棋はダメでも、碁は4段になったし、カルタは諦め、英語で上達した。掃除の仕事の代わりに、他の仕事でヒットを飛ばし、老後の生活は安定した。

神経症者では、この切り替えが上手く行かない。困難に遭遇すると、彼等は意識で乗り越えようとする。自分の心の中には、無意識と言う影の力があるのを忘れてはならない。その無意識がどう判断しているかに注目するのです。無意識を大事にするとは、立ち止まって考えないで、体の動く方向に任す事だ。健康な人はこの無意識の利用が大変上手い。

人の無意識が活発であるかどうかは、その人の動きを見ると分かる。無意識が活発な人は止まる事がないのに対して、不活発な人は動かない。彼等は一日中座って考え続け、薬かアルコールの力を借りないと立ち上がる事さえ困難になっている。

薬物の力を借りるわけには行かないから、意思で立ち上がり動きを開始するわけであるが、動きと言っても公園でランニングをするのとは違う。無意識が活性化した動きとは、何かの用をしている動きなのです。貴方の周りの人を見ても、青い顔して天井を見ている人はいないでしょう。誰もが何かをしているはずだ。

何かの用をしている状態が健康であり、無意識が活発に働いている。人はこんな時、何か別の事を考えている。一日を過ごすと、肉体的な疲れが残るだけで、すがすがしい一日だったになる。

この動きを重要視する生活を、斎藤は過去24年間してきた。健康生活を開始した今から24年前には、頻繁にフラッシュバックに悩まされていたが、その回数も年々低下し、今ではフラッシュバックと言う言葉は死語になっている。目標は達成され、神経症は過去のものになった。それでも完治と言わないのは、言う必要もないし、第一、神経症脳そのものがなかった状態にするなんて、余りにも欲張りでしょう。



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