老子

ある神経症者がずいぶん前に私に老子を説明してくれたことがあった。私はその当時そのまま聞き流していたが、今回ふと何か学びたくなって、本屋に行って小冊子を買い読んだ。

無為療法の「無為」は別に老子からヒントを得てつけた名前ではないですが、老子の書物にこの無為の文字が頻繁に出てくるのに驚いている。
老子は紀元前6世紀頃の中国の人物で、生き方として欲を張らず無為自然に生きることが天の法則にかなっていると主張している。しかし、私にはあまりに素朴過ぎて何か物足りなく、果たしてこの思想で現在の複雑な世界を乗り切れるだろうかと疑問を持った。
だが下に掲げる一文を読んだとき、老子が中国の禅をさかのぼる事1000年も前に禅の基本の考えを説き、さらに中国禅の1500年後の無為療法の基礎にも通じているのに驚いている。

老子は紀元前6世紀の思想家で道教の創始者でもある。中国の禅は5世紀末の南インド出身の達磨により伝えられたと言われているが、中国禅の成立には老子の思想が大いに寄与しているのがこの本を読むとわかる。

その老子がこのようなことを言っている。
その出ずることいよいよ遠ければ、その知ることいよいよ少なし。
外に一歩も出ずに天下のすべてを知り、窓の外を見ずに天の法則を知る。外を知ろうと遠くへ行けば行くほど、知ることは少なくなる。
以前、神経症者から神経症で悩んでいましたが、努力の甲斐あって今度バンクーバーにまで行くことが出来ましたと、掲示板に書き込まれたことがあった。私はすぐこれはおかしいと反論した。なぜ神経症を治すためにわざわざバンクーバーにまで行かないとならないのかと。バンクーバーにまで行けたのがどうして神経症の改善なのかと。

神経症が治る場所とは、今貴方がいるこの場所なのです。この場所で治せない者が遠くの外国に行って治るはずがない。外国に行かなくても国内の特殊訓練所を30年も渡り歩いている神経症者は沢山いる。私も本屋の棚の隅に発見した本を読んで、小田原の断食道場に40年も前に参加したことがあったが、わずか3日で退散した記憶がある。神経症とは外を知ろうとして、生涯遠くへ出かける人たちなのです。しかしその試みはすべて失敗し、彼等の多くが慢性の鬱状態に陥っている。

つい最近も、掲示板に次のように書き込みがあった。
「おかげさまで無為療法のおかげで、結婚もでき、子供ももうけて、会社勤めが出来るようになりました」。

なぜ神経症の改善が結婚でないといけないか、あるいは仕事でないといけないか、子供をもうけることでないといけないか。老子も言うように、その目的を追求すればするほど神経症の治癒からいよいよ遠ざかることになる。神経症は精神障害であり、精神障害を治すことと、人生の目的の達成は異次元であり、本質をぼかした議論をしては困る。神経症が治らない限り、ハーバードに入ろうが東大の教授になろうか悲劇はついてまわる。

神経症者というのは遠くのエベレストの頂上ばかり求めて、今この自分の目の前の一歩の踏み出しを逡巡している人たちなのです。あまりに強い強迫観念により妄想状態になっていて、自分の目の前が見えなくなっている。
老子が言うように、この一歩で天の法則を知る。
私は今から20年前の48歳の時のある晩に、一切の神経症治療行為を停止すると決意し、目前の雑用を開始した。その一歩により、天の法則を知り健康世界に入ったのです。



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