神経症とは狂い


神経症を狂いと断言するこのサイトは、残酷だと皆さん言うでしょうが、そんなことはない。神経症を正気として擁護する方が、むしろ残酷なのです。

神経症が狂いなのは、私自身の経験を見ると一目で分かる。私は16歳から48歳まで30年間、毎日、毎分毎秒神経症を如何したら治すかを考え続けていた。
脳のエネルギーの殆どを果てしもない思考に費やすのであるから、結果はこの通りで、30年後人生は見事崩壊していた。

健康な人では、数日あるいは数カ月考えて出来なければ、諦めるか、何か違う事を考え始める。所が神経症脳には努力の終わりはない。思考は暴走して、ブレーキをかけても止まらないし、大体ブレーキをかける意思が消滅している。

神経症を治すとは、この暴走した思考を強制停止させることなのです。
無理だと言うかも知れないが、斎藤はこの通り実行したのだから、皆さんもやって出来ない事はない。神経症を治そうとする行為が本質的に病的行為なのだから、神経症脳でも意外と実行できるのです。

人間は犯罪を嫌い、大食い、浪費、自慰を嫌うように、治る可能性がないものを治ると信じて果てしもなく努力する行為を嫌う。無駄と分かっていても停止出来なくなったのは、神経症脳と言う暴走脳にあるのです。本来なら脳の深部にあるはずの安全スイッチがないか、故障していて動かなくなっている。
神経症の治りとは、この安全スイッチの存在に気づいて、再度スイッチを押す行為なのです。

神経症安全スイッチを押して最初に気が付くのは、自然な心の回復です。今までは簡単な動作の開始も困難であったが、自然な心を回復すると、動作がいとも簡単に出来る。大体考える前に何かをしているから、身の回りが小ざっぱりして、人からものを頼まれるようになる。

対人恐怖を治すのに、人に近づく必要がないのも分かるでしょう。今までは対人恐怖を克服しようと、敢えて対人恐怖を起こす場面に出て行って自分を測定したが、今は人は向こうから近寄って来る。 対人恐怖を克服したではなくて、生活の動作により対人恐怖の外側の世界に入っているのです。

神経症の本質とは、実は恐怖、不安が引き金になって起きた意識の混乱であり、
脳の狂いであり、情報処理の遅滞であるのが分かる。



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