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斎藤と神経症者の違いは強迫観念に対する見方だと思う。 斎藤は今まで強迫観念を味方と表現した事は一度もなかった。強迫観念は狂いであり、敵であり、無視する相手としてこのホームページを運営して来ました。 それに対して、神経症者は強迫観念が自分の一部であると主張します。強迫観念は味方であり味方を無視するなんてとんでもないと、斎藤に物言いをつけて来るわけです。 病気を治すとは、病気の本質を理解して正しく対処することです。なら、強迫観念は正しいシグナルと言って良いのか。統合失調症の患者では実際に幻聴が聞こえますが、これが正しい現象と言ってはならないのと同じで、健康な脳にない強迫観念は間違っているのです。 神経症者にも言い分がある。強迫観念が正常ではないとしても、あの圧倒的な力で迫ってくる強迫観念を無視なんてとても無理だと。でも、強迫観念をそのまま受け入れていたら、人生はお終いになってしまうのは神経症者なら誰でも知っている。従って神経症を治すとは、不可能に近い問題に取り組むことなのです。 皆さんもご存じのように、心の病と言われるもので治すのが簡単なのはあまりないでしょう。不安症、鬱は心の病の中で最初に出てくる言葉ですが、対処の仕方は30年前も今も同じで、抗鬱剤と認知行動療法だけだ。 私が体験したのは、動きがこの問題の突破口に成り得るであった。動きとは筋肉を使い関節を動かすことですが、この筋肉の動きが第二の脳の役割をするのです。 筋肉の動きは短期的には痛み止めの効果を発揮しまして、強迫観念を半減させます。試しに動かないでそのまま強迫観念を受け止めたらどうなるか。強迫観念に吹き飛ばされてしまうでしょう。動いていればなんとか凌ぐことが出来るのです。 長期的効果としては、日常の生活に動きが加わりますと精神的に安定します。動いていない以前は、不安に襲われるとそのまま神経症アリ地獄に陥ってしまったものが、動きを意識して取り入れるようになると、気が付いたら通常の生活に戻っている体験をします。 私がこのホームページを運営していて気が付くのは、読んでいる人たちの多くが動いていない事です。彼らは色々文章を送って来ますが、その中に動きを匂わす言葉がない。以前、私に近づいてきたある人に雑用をしているか問い詰めたところ、していないと答えたのでその後連絡を拒否した。どんなに私に近づいてきても雑用を拒否したらもうダメなのです。 健康とは体が自然に動く事です。自然に動くとは雑用をすることであり、雑用をしないとは病気のままでいたいと表現しているに等しい。 ある若い女性が熱心に私に神経症を治す方法を聞いてきた。しかし私の答えは何時も同じで、療法の完全停止と雑用であった。ある日、彼女は私との連絡をパタッと絶った。いくら聞いても全治根治の解答を出してくれないので失望。これが彼女が私を離れた理由です。 神経症者にとって雑用が難しいのは分かる。強迫観念が仁王立ちになって俺の意見を聞けと迫るのだから勝てない。そこを動くのです。 動くと当座は物凄く苦しい。しかし歯を食いしばって動いていると、不思議と次第に強迫観念の力が減衰して来るのです。ある時点でこれならいけると感じる時があり、こうなったら斎藤の助言などいらないでしょう。われわれの脳にも自律反転能力があったのです。 その能力を引き出すには、動いて強迫観念の力を打ち消すだけです。 ホームページへ |