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貴方はこのまま神経症で人生を終わりたくないと思ってないだろうか。毎日毎日続く神経症の苦しみに耐えかねて、何としても死ぬ前には神経症を治したいと考えているのではないか。
しかし神経症者のこの決心は最悪なのです。何故当然の決心が最悪の決心になってしまうのであろうか。それは神経症の悪化を促進してしまうからです。神経症とは、神経症を治す努力の2乗に比例して悪化する性質があります。即ち2の力で努力をすると4の力で地獄に突き落とされるわけです。 森田療法で入院した人は動きを習ったと思う。動きとは禅の修行の作務に似ていて、作務衣を着て修行する僧を想像すると良い。作務をしたら神経症を治せると神経症者は思いたいが、改善どころか次第に動けなくなり、最後は日常の簡単な動作もままならなくなる悲劇が起こるのです。 作務的動作は一つの失敗例であって、神経症者は他にも色々手段を工夫をします。しかし何をやっても神経症はよくならない。私は神経症者に不安を煽っているわけでなく、ちょうど糖尿病の患者が生活を改善しないと両足を切断することになるように、神経症を治す努力をしていると人生は本当に崩壊してしまうぞと警告しているのです。 神経症では、症状を取り除けと言う命令が脳で鳴りっぱなしになっていて、この恐ろしい命令に勝てる人はいない。そのため、一度神経症を発症するとほとんどの人が一生続くことになります。 私が48歳の時のある晩、奇跡的に30年間悩んだ神経症脱出に成功した。でも、私の脳が生物学的に変化したとは言えなかった。コンピューターで言えばソフトを入れ替えただけで、ハードは相変わらず古いコンピューターであったから、度々神経症フラッシュバックに襲われました。 私は大体まめな人間で、体を動かす雑用を好みます。神経症であろうがなかろうが、掃除洗濯買い物は喜んでやった。この雑用処理が神経症を治して以来余計にできるようになって、フラッシュバックに入った時も意図的に雑用をして敏速にフラッシュバックを脱出していました。 しかし、雑用をやってもフラッシュバックから脱出できない時も多かった。どこに問題があったのだろうかと考えると、神経症を治すために雑用をするとは、「神経症治療行為を完全に停止せよ」の原則に違反している。こんな簡単な違反に気が付かないのが神経症脳の狂いで、これだから心の病の治療は難しい。 ところで、健康な脳では不安が襲ってもそれが不安を治す方法を求める反芻思考を誘発することはない。私が神経症を発病する前、不安が起きても片時も休まず考え続けるなんて経験したことがなかった。 最も困ったのは、異性恐怖の解決を日夜考え続けたことで、余りの執拗さに自分でも異常を意識したほどです。しかしあの当時、これが神経症脳が起こす病的現象であることを説く書物も医学もなかった。 神経症の本質とは不安ばかりでなく、それに続く治せの反芻思考にあると考えます。不安を発生する脳を治すのは容易でないですが、反芻思考を減らす、あるいは停止させるのは可能だと思う。何故なら、30年間毎日考え続けた強迫思考を、意思の力で停止することに成功したからです。 反芻思考をどうして止めるかが鍵ですが意外にも、ただ単に止めるだけです。ああだこうだと理由を探し始めたら、永久に止まらない。 反芻思考を停止するとその効果は凄い。ふっと鬱状態が消えて体が軽くなります。その時、症状は既に忘れている。多分健康な動物の証明は動くことなのであろう。強迫観念が消えると自然に動き始めます。 不安を発生しやすい脳はそのままなのですが、不安を爆発させる起爆装置が切り離されたらしい。 健康を回復した人間でも失恋もするし職も失う。しかし普通の人間としての不安や悲しみであって、神経症の復活とはわけが違います。 皆さんもぜひ反芻思考を停止して不安の起爆装置を外してもらいたい。 ホームページへ |