動けに対して切れること

我々人間は動物であり、動物は動く物である。動物の世界には一定の割合で捕食動物がいて、捕食動物から逃れるには敏速に動くしかない。この生存競争を生き抜くために、地球上のあらゆる動物は、素早く動くように進化して来た。動きとは生存に欠かせない動物の原点であるが、これを神経症者は大いに嫌う。動けと言うと、それは療法かと聞いてくる。

この言い方はないであろう。飯を食う時は、手を動かし食べ物を口に運ぶ。これが療法であろうか。おしっこしたくなった時に、トイレに行く。これが療法だろうか。
神経症者は腹が減って飯を食う時と、トイレに行くときは、人より先に済ますのに、部屋を掃除しろと言うと、これは療法であるかと問う。トイレと飯以外は全て療法であり、療法の意味が分かるまで、俺は動かないと宣言しているようだ。

健康な人に動きなさい、雑用をしなさいと言ったらどんな反応を示すだろうか。きょとんとした表情で、「動いているよ。今朝からやっているではないか」と答えるに違いない。
健康な人はたくましい。例えばスーパーを見ると、商品を運び入れる人、それを陳列する人、レジでお金を受け取る人、事務室で明日の仕入を準備する人等が協力して日夜動いている。そのお蔭で、我々は欲しいものが買える。

子供はどうであろうか。彼等は常に動いていて止まることがない。あの活発な動きを見て、皆子供の将来を楽しみにするだろう。もしその子が、じっと座って考え始めたらこの子の将来は暗い

雑用とは、生きるための全ての動きだ。我々は一見、難しい問題を処理しているようであるが、その実、簡単な物事の処理、即ち雑用の連続をしている。この最も大切な動きを、神経症者は否定する。動いたらどうだと促すと、激怒するのだから手に負えない。何故、彼等は雑用を拒否するのであろうか。理由は、彼等が精神病の患者だからなのです。

彼等の脳では感情が暴走している。特に不安、強迫観念の暴走は凄まじく、無意識が出る間がない。我々の健康な生活は、意識と無意識の共同作業で成り立っている。ここ一番の難しい作業をする時は、意識が主導権をとるが、日常の決まりきった作業では、無意識が指令を出して省エネの動作をしている。

残念ながら、神経症者の脳では両者のバランスが狂い、意識が脳全体を乗っ取り、無意識が抑え込まれてしまった。そうなると、簡単な動作までも意識でやらなければならなくなる。これは異常な状態であるから、動作が遅くなり、間違いが発生し、脳に無理な力が加わわり、鬱状態を引き起こす。

彼等も動きたいのは、やまやまなのであるが、動けない自分を他人に指摘されたくない。だから、動きを指摘されると、一気に怒りが爆発してしまう。でも、そのまま動かず、神経症窟で森田療法に耽溺していると、間違いなく一生神経症で終わってしまう。それ知りたければ、インターネット上で神経症治癒者を探したら良い。自称治癒を標榜している人たちは、森田の言葉を繰り返しているだろう。森田の言葉を繰り返すとは、彼等が森田と同じ状態であることを意味する。森田は実は神経症が治ってないにも関わらず、治ったと自称して療法を開始してしまった人物なのです。実際、私が神経症を脱出する前まで、日本には一人も神経症を治した人はいなかった。

私も神経症を脱出する直前の48歳の時点で、人生はほとんど崩壊していた。結婚も諦め、社会の底辺の仕事をやりながら、やっと凌いでいた。鬱状態もひどく、生きるしかばねと言っても言い過ぎではなかっただろう。

雑用の会
しかし無為療法では奇跡が起きて、最近の3年間に、3人の神経症者が神経症が治ったと言って現れた。これを今回ホームページに、雑用の会のメンバーの発言として特集したのであるが、それを読むと、神経症からの解放は何種類もあるのでなく、ただ一種類、健康だけがあるのが分かる。

彼等は、ただ動くと言い、無駄な表現を嫌う。彼等の文章に共通するのは文章が短いこと。健康世界には、ダラダラした無意味な言葉の羅列はない。
無為療法には何かがあると察した彼等は、辛抱強く、質問せず動き続ける。その結果、むさくるしい部屋はきれいに整頓され、会社では仕事の処理が速くなり、同僚が彼等を頼りにするようになる。家でも彼等が一番こまめに動くものだから、家人も頼もしく思う。ある日気がついてみたら、別の自分になっていたと言う。

こうなると、もう神経症者とは意見が合わない。神経症者の発言には不快をもよおすようになるから、もちろんHNの掲示板も読なない。自分が指導者であり、自分の脳が正しい判断を下す。やることが一々ツボにはまるようになり、人生が好転し始めているのを実感する。



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