雑用が危険であること

今、思い返して不思議に思うのは、無為療法を開始した頃、沢山の人からどうしたら神経症を治せるかの問い合わせが来たことです。
ホームページの最初に神経症を治すには「治療を求める行為の完全放棄」を宣言しているのに、治す方法を聞いて来る。おそらく彼らには「治療の完全放棄」の言葉が見えなくなっていたのだろう。ホームページの正面に書いてあるその言葉を読み飛ばすほど、神経症の強迫観念とは威力があるのです。

私には熱心に質問してきた若い女性がいたが、彼女はある日を境にパタッと消えてしまった。彼女も例に違わず、強迫観念でホームページが読めなかった。神経症治癒を求めて必死に質問をしたが、返って来る言葉は何時も同じで退散したと思う。

その神経症者たちに私も影響されて、以後、神経症を治す何か具体的方法がないかと探した。私自身も雑用のお陰で神経症が良くなったと勘違いしていたので、以来神経症者に強く雑用を指導したのは大いに疑問であった。雑用は神経症不安を和らげる妙手に見えますが、実は神経症者を間違った方向に導く罠になってしまうのです。

確かに神経症が回復すると雑用が気持ちよく出来る。しかしそれは神経症が治ったからであって、雑用が神経症を解決しているわけではない。雑用は心の健康状態を示すリトマス試験紙ではありますが、神経症を治す薬ではなかったのです。

私があえて雑用が危険と言うのは、雑用をすると一瞬不安が晴れる。 だから神経症者はこれが解決かと取ってしまうのです。その間違いが神経症悪化を促進し、その内にいくら雑用をやっても効果がなくなり神経症の地獄に沈むのです。

何でこんな現象が起きるのだろうか。雑用は普通皆自然に行っています。雑用をある病気の改善のためにする人はいない分けで、自然に行うゆえに体も自然に動く。それを神経症を治すと言う不自然な目的のためにすると、本来体に備わっている動きに矛盾しますから、脳は警戒を発するわけです。警戒するどころか危険な動きと判定して、強烈な疑問で対抗する。これが神経症者が雑用中に感じる猛烈な困難で、この状態になったらもう雑用が出来ない。出来ないどころか心は真二つに割れて、体は突然停止してしまうのです。

この失敗を防ぐにはどうしたら良いだろうか。
どんなに激しい強迫観念が襲っても解決する手段を用意せず、無回答で進むのです。イエスでもノーでもないそのままの状態で進む。
こんなこと、健康な人なら何時もやっていることですが、神経症者には難しい。不安が起きてもそのまま通過すれば不安のレベルは間もなく下がるのに、何らかの解答を見つけてしまうため、不安が爆発してしまう。

神経症の悪化とはこのようにホンの些細なことで始まりますが、そこが分からないで今も100万人もの神経症者が苦しんでいます。さあ、貴方はこの決心が出来るか。出来ないと言うと神経症は一生続いてしまいます。



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