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鈴木大拙「禅仏教入門」から われわれがそれを詳細に、あるいは体系的に考究せんとして、それを手中に握りしめようと あがきはじめたとたんに、それは逃げ去り、その跡をもとどめていないのだ。 禅はいまいましいまでも逃げ上手である。神経症の治りは禅の悟りと同じで、体系的に考究し手中に握りしめようとしたとたんに逃げ去り、いまいましいほど逃げ上手なのです。 私は神経症の治りは一瞬であると言う。体系的に考究する対象ではないし、握りしめるものでもない。悟りは一瞬にして消えるが、生活の中でバックボーンとしてわれわれを支えている。しかしそれを言葉で表現しようとすると消えてなくなる。 ではどうしたら人に神経症の治りを伝えることができるであろうか。それは禅問答のごとく非合理の極に到達しないとならない。まず立ち上がれと言う。台所には汚れた皿があるだろうから洗ったらどうかと言う。所が神経症者は立ち上がる理由を発見するまで立ち上がらない。 その悪い連鎖を断ち切って立ち上がった瞬間が、後から考えて悟りの一部であったと分かる。 ホームページへ |