無為療法 禅の講義


「道元」松原泰道著から 
それまでは、仏性とか本覚とか凡夫とかの名にとらわれ、概念に縛られていた道元ですが、そうした束縛からすっぽり抜けてみれば、いま座禅しているありのままのすがたそのままが本覚の仏性だと、自分で自分に気づかしめられたのです。しかし、その自覚の時点に止まるなら、それはまた本覚の仏性にとらわれてしまいます。止まらずに進まなければなりません。すなわち本来の仏性を自覚した身心脱落に停止する事無しに、脱落身心に励む意味を道元は体で受け止めたのです。
ある神経症者から電話があり、雑用を少しずつ無理しないで開始したと言っていた。どうも頼りない内容で無為療法になってないと感じたが、次の一言で決定的になった。

「無為療法には効果があり、今までの頭の混乱が大部治まった」と彼は言った。これは無為療法を神経症症状を軽減する手段とした誤りで、今後も神経症は続く。

上の道元の悟りを理解してもらいたい。座禅している姿が悟りだと気づいても駄目だとしている。 このままだととらわれなのである。身心脱落に停止する事無しに脱落身心(身心を言うのをやめる)に前進しないとならない。

無為療法で言えば、雑用をして気持ちがすっきりしたは余計であり、気持ち云々を排して前進するのです。斎藤に雑用に効用があったと報告してくるのではなく、直ちに次の雑用に取り組まないとならない。無為療法の効果を言うのはたわごとなのです。

道元が言うように悟りは状態にあるのでなく、行動にあるのです。禅なら座禅を組む姿勢にあり、 神経症では雑用をしている姿が神経症の治癒なのです。決して雑用を停止した状態で、斎藤に神経症が良くなったと報告してきてはならない 。



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