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「道元」松原泰道著から 「自受用三昧、その標準なり」鈴木大拙先生が三昧の心境を子供を例に出して説明しておられる。健康な人間、あるいは神経症が治った人間は日常の雑用を三昧の境地でやっているから、後から考えて、はて自分は何をやったかあまり記憶にない。あえて言えば大した事しない内に1日が終わったと感じる。 それに対して神経症者は自分がここまでやったと強調する傾向がある。強迫観念に日常苛まれているから、困難にも関わらずここ迄やったと報告する。これは森田療法の苦しくてもやるべき事をやり、社会に奉仕せよに似ていて、鈴木大拙先生、あるいは道元の教えの逆になっている。大拙先生は自受用三昧に遊化せよと言って、子供の例を出し三昧の境地を説明した。 無為療法でもこれだけ自分が出来たと測定する雑用でなく、気がついたらただ雑用をしていたが正しい。強迫観念があろうが無かろうが、対人恐怖が起きようが起きまいが、雑用をする。その結果、神経症が治ったと言うのは余計であり、鈴木先生のように、お前何をして来たと聞かれて、何もしないと答えるほどの雑用が正しい。 ホームページへ |