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「道元」松原泰道著から "禅門では、本覚の仏性を信ずる「信」と、なぜ自分には分からないかという「疑」と、この疑いを晴らすべく努力精進する「進」を修行者が欠かしてはならない三項目に挙げます"対人恐怖では、人は会話を楽しんでいるのに自分は入れない。何故だろう、自分も会話を楽しんで当然と思う「信」と、それなら何故その会話に入れないかの「疑」、では治してやろうの「進」があり、禅寺の修行僧に大変似ている。 神経症の場合、「信」と「疑」に大きな間違いはないが、「進」に問題があり、間違った方向に努力を開始してしまう。何故間違った方向に向かうのか。理由は暴走する神経症脳にあります。我々にもし脳が2つあれば、一方の脳が、もう一方の脳に間違いを指摘して解決できる。 なら、一つしか脳がないわれわれは、どうしたらこの迷路から出られるか。神経症の迷路を脱出した人に方向を示してもらうのです。 禅ではただ単に座禅することを命じます。無為療法でも一切の質問を止めて目の前にある雑用を開始することを命じます。 この時、雑用をしたら神経症が治ると言う確証を与えない。何故なら、確証を求める行為が間違いの始まりだからです。 ホームページへ |