無為療法 禅の講義


「道元」松原泰道著から

「自受用三昧、その標準なり」
自受用は自分でさとってその機能を自分で味わい体験する事。三昧は徹底する事で自分で得た力に徹するのが標準(根本)である。
そして自受用三昧に遊化(ゆげ)する一番正しい方法は、正しい姿勢で正しく座禅することである。遊化も味わいの深い仏教用語です。他から命じられてするのでなく、無心に子供があそぶようにくったくなく思うがままに行動するのを遊化と言います。

鈴木大拙先生は遊戯三昧を分りやすいように次のように語られたそうです。
・・・これは子供の話なんですがね。子供が朝から遊びに出ておって、昼頃「お腹が空いたから」と帰って来た。親が「お前どこへ行っておった」と聞くと、子供は「外へ行っていた」と言う。「何をしておった」というと、子供は「何もしない」と答える。これが面白い。
・・・子供はとんだりはねたりして空腹になって帰って来たにもかかわらず、何もやらぬと同じことなのですね。それが遊戯自由というものです。

鈴木大拙先生が三昧の心境を子供を例に出して説明しておられる。健康な人間、あるいは神経症が治った人間は日常の雑用を三昧の境地でやっているから、後から考えて、はて自分は何をやったかあまり記憶にない。あえて言えば大した事しない内に1日が終わったと感じる。

それに対して神経症者は自分がここまでやったと強調する傾向がある。強迫観念に日常苛まれているから、困難にも関わらずここ迄やったと報告する。これは森田療法の苦しくてもやるべき事をやり、社会に奉仕せよに似ていて、鈴木大拙先生、あるいは道元の教えの逆になっている。大拙先生は自受用三昧に遊化せよと言って、子供の例を出し三昧の境地を説明した。

無為療法でもこれだけ自分が出来たと測定する雑用でなく、気がついたらただ雑用をしていたが正しい。強迫観念があろうが無かろうが、対人恐怖が起きようが起きまいが、雑用をする。その結果、神経症が治ったと言うのは余計であり、鈴木先生のように、お前何をして来たと聞かれて、何もしないと答えるほどの雑用が正しい。



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