無為療法 禅の講義


鈴木大拙「禅仏教入門」から
「イエス」と「ノー」といった知性の日常的営みは、事物がお定まりの道筋をたどって行ってくれている間は、便利この上もないものである。が、しかし人生の究極の質問が湧き出るや否や、知性でもってしてはそれに満足のゆく解答を与えることはできないのだ。
「イエス」と答えたとき、われわれは肯定したのであるが、肯定することによりわれわれはみずからを枠づけているのである。「ノー」と答えて否定したとき、否定は排除であるわけだ。排除にしろ枠づけにしろ、つまりは同じことであって、霊性を殺すのである。
排除、枠づけのなかには、自由もなければ合一もない。禅はこの点を知り抜いている。それゆえにこそ、われわれの内なる生の要請に応じて、いかなる対立も存在しない絶対境へと、禅はわれわれを導くのである

私は”解答を出してはいけない”と言う。さらに”解答を出してはいけないと言う解答も出してはいけない”とも言う。なら一体どうしたらいいのだと、神経症者は追求してくるだろう。これの繰り返しをしながら今まで15年以上神経症者を指導してきたが、残ったのは斎藤一人と後数人と言う猛烈な難しさだ。

斎藤の言うことは大拙の言うことと一緒なのです。
禅の極楽の境地は「イエス」でもなく「ノー」でもなく、そのいずれからも超越した絶対の境地と説明している。

神経症の解決も「イエス」と「ノー」の知性の営みを超えたものでないとならない。そんなことが出来るのかと聞かれそうだが、実はその絶対境地は我々の直ぐ横にあり、日本人の99%がその境地で生きている。その簡単な事を、神経症者がなぜできないか理解できない。


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