無為療法 禅の講義


鈴木大拙「禅仏教入門」から
禅は媒介を好まぬ。たとい、それが知的媒介であるにしても。禅はなんら説明に依存することなく、徹頭徹尾一個の修行であり、経験である。説明は所詮、時間と労力の浪費であり、正鵠を得ることがないからだ。諸君がそこから汲み取れるものは、事物に関する一個の誤解であり錯雑たる見解にすぎぬ。
禅が諸君に砂糖の甘さを知らせようと思うとき、ひたすらにその一塊を諸君の口中に投げこむばかりであって、一語とて語るわけではない。
禅者は口ぐせのごとく言う。
「月を指すに指を要する、しかし指を月と誤るなら大事だ」と。
こんなことはありそうもなく思われるが、われわれは知らず知らずかかる類の誤りを犯しているのである。まさに知らぬが仏であって、われわれは自己満足していられるわけである。禅に関する著作といったものは、所詮この月を指す指以上に出られるものではない。

禅匠も大拙も説明を嫌い、一瞬の動き、動作の中に禅の極意を説明しようとする。どれほど素人に分かりやすく説明しようとしても、それは禅の本質から遠く離れて何ら役に立たないからだ。神経症の治りも治ならい限り分からない。神経症の最中に想像する治りの世界はすべて狂いの世界であり、想像するだけ時間の無駄です。

私は直ぐ立てと言う。しかし条件がある。もし立てば治ると考えて立とうとすると、立てない。神経症を治す療法の完全停止が条件であり、これを実行すれば、立てと言う前に既に立ち上がっている。そして雑用の開始だ。

神経症とは、療法談義に明け暮れる精神病です。健康は動きにあり、神学論争には
ない。砂糖の甘さを知るには、砂糖を口に放り込む以外にはない。



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