無為療法 禅の講義


ナチュラル公案とギブン公案 

宇佐先生は公案にはナチュラル公案とギブン公案があると先生の本で論じていて面白いと思う。神経症者は自然発生したナチュラル公案である強迫観念と格闘していて、臨済宗の修行僧は禅匠から与えられるギブン公案を解こうとする。一方は脳の狂いであり、もう一方は宗教の修行であるのに両者は驚くほど似ている。

修行僧は公案を解こうと必死に修行を重ねるが、解答が探せないで次第に神経症のような状態になる。神経症の場合は不安をどうしたら解決できるかを必死に解こうとして、解けずに数十年あるいは一生の無駄をする。

斎藤は奇跡的にもこの公案を解いた。しかし自分の出した解答の深い意味を悟るまでに更に10年の歳月を必要とした。神経症脳が出した公案を解いて高い境地に立つと、なんといまから800年も前に日本の禅哲学の基本を書いた道元の主張に一致しているのを発見した。

禅は仏教の一種ですが、大体仏教と言う宗教は科学的側面を持っている。だから、チベット仏教の総本山であるダライラマも仏教は科学と言っていて私も大いに賛成する。それなら神経症者も座禅をしたらと考えそうですが、神経症は座禅では治らない。

神経症は雑用でしか治らない。雑用を無目的にただやり続ける時に神経症の外側に出る。座禅と同様、神経症を治すための雑用をする限り神経症の開放はありえない。無所得、即ち報酬を期待しない雑用をしているその姿が既に神経症の開放の姿なのです。

余談ですが、禅僧に神経症はいないらしい。また神経症が治った者は禅への理解が深まり10年以上座禅を組んでいる人の上を行く。私は時々本屋で禅に関する本を立ち読みすることがありますが、内容が人生論だったりして、これなら自分の悟りの方が上を行っていると思う事がしばしばです。



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