「無」を科学から検証する

私は繰り返し「無」、あるいは無意識の重要さを説いてきた。「無」とは意識しない動作であり、健康な人達の日常は殆どこの動作で行われているから大変快調であり疲れない。私の一日の大半も「無」の動作であり、一々自分がこれから何をして何を終わらせたかは考えていない。この感覚は、丁度自転車を乗ることを思い出したら良いと思う。自転車に慣れない頃は自転車が倒れないことだけに心を集中して乗っていたであろうが、慣れてしまった今は自転車のことは全く考えていなく、ただ目を前方に向けているだけで頭の中は別のことを考えている。脳のエネルギー消費レベルは最低であるから疲れないし、その分より重要な決定に脳を使えて我々の生活は向上する。

未だ科学は、高度の判断する前頭葉がどれほど我々の意思決定に関与しているか解き明かしていないが、最近の研究で次第に前頭葉は我々が考えるほどには関わっていないのが分かってきた。2008/11/10日にサイエンスデイリーに決定は己の意思かのタイトルで研究が発表された。それによると、目が比較的簡単なイメージを捕らえて脳が動作を指令する場合、前頭葉が意思を決定するのではなく、頭頂葉にある運動前野が直接指令していると発表している。

2008年4月15日にもドイツのマックスプランク脳科学研究所から、我々は意識して決断しているようであるが、実はその7秒も前から無意識脳からの信号が発射されていて決断が予測できると言う注目ある発表があった。この事実は我々の日常生活から実感できる。例えば今日の午後にある所に行こうか行くまいか迷っている時に、強引に決定するのでなく、雑務の処理に追われつつ午後に至り、意外にもものの弾みでひょっと出てしまうのを経験しないであろうか。

健康な脳の活動を脳スキャンを使って調べるのは大変重要であると思う。今までこの種の研究がなかったから怪しい療法家、心理学者が、我々神経症者は努力して行動をし、不安に耐えて前進すれば神経症が解決すると指導して来た。その伝で行くと前頭葉を振り絞り考えまくれば健康になるはずであるが、健康な脳では意外にも意思を多用してなかった。むしろ動作を開始する時に前頭葉は静まり返っていたと実験で分かった。認知、判定、動作の決定は運動前野と言う無意識に近い領域で処理されていたのだ。

これを我々の日常生活の中で具体的に説明すれば、流しに立って皿を洗う動作を健康な人では意思でやっているようで、実は無意識にやっている。事実、斎藤は気持ちよく毎日の雑用を処理しているが、己の意思でやっているように見えない。むしろ汚れた皿を思う感覚であり、身の回りをきれいにしたい、早く次ぎの仕事に入りたいの思いが私を後ろから押して、気がついて見たら流しに立っていたが本質に近い。この無意識による動作の処理で最も際立つのは、強迫観念との衝突がないことだ。意思による強引な決定には必ず強迫観念が前に立ちはだかる。意思で雑用に立ち上がったとしても強迫観念の妨害で30分後にはへたり込んでしまうであろう。神経症者ではこれを仕事に出て環境の圧力で解決しようと試みるが、不自然な動きを試みる人に良い仕事は期待できないから、間もなく仕事にも行き詰ってしまう。

神経症者も健康な人も意思で動くは間違いなのだ。動きを開始する瞬間は意志が働いても、一端動きに入ると我々の無意識が動作を指令している。この健康な無意識を発動させるには努力が有害なのだ。努力で仕事場に行き、苦しい環境で食いしばるのではなく、今このストレスのない瞬間にひょっと立ち上がり何かの動作を開始してそれを継続する、即ち無意識を活発に動作させる状態が健康な世界であり、強迫観念と競合しない幸せな世界なのです。

努力をすれば神経症が治るは間違いであったのだ。



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