鬱の新しい理論 2 

この初期の発見が、鬱病低レベル・セロトニン説を引き出す原因になっている。この説によれば、鬱とは脳内神経伝達物質のバランスが狂い発症しているとする。健康な脳では、セロトニン・レベルは正常に保たれているから細胞間の情報交換に問題が起きていない。

過って作家のアンドリュー・ソロモンは、鬱を”愛の欠陥”であると表現した。確かにローディキシンを投与された患者はその欠陥が現実に現れた。自己愛の欠陥(罪の意識、恥、自殺念慮 )、他人に対する愛の欠陥(詰問、攻撃、非難)、愛希求の消滅(無気力、引きこもり、怠け)。しかしこれらは神経伝達物質のバランスの狂いから生じた症状で、真の元凶は神経伝達物質の異常であった。

この新しい理論の証明は、ある薬の発見からきた。その薬とはセロトニンの量だけを増やす薬で、ジメリディンと呼ばれ、アービッド・カールソンと言われるスウェーデンの科学者が製造した。カールソンの後を追って製薬会社が次々とセロトニン増強薬を作り、ついにプロザックという製薬業界のスーパースターが1974年に誕生した。その後を追い、パクシルが1975年に、ゾロフトが1977年に誕生している。

私は、2003年にボストンで53歳の進行すい臓がんの女性患者治療をした。彼女の名前はドロシーと言い、別に特別な症状はなかったが、ある日に無痛黄疸と呼ばれる症状を呈しはじめた。この症状は各種原因から起こる。ドロシーの場合、すい臓が肥大してげんこつの形になっていて、背後の血管を圧迫していた。転移は一か所肝臓に発見され、既に手術は無理で薬物投与しかなかった。

この診断を告げるとその衝撃は大きく、彼女は一瞬にして全身麻酔をかけられたように何にも反応をしなくなった。化学療法を開始しても、ベッドに横たわるか窓の外の川を見ているだけであった。大変困ったのは、彼女が次第に自己拒否状態になったことだ。今までのきれいにとかした髪はぐしゃぐしゃになり、衣服は変えなくなり、皮膚をいじくりはじめた。食事にも手をつけず視線が合うこともなくなった。

私はある朝、彼女が機嫌を損ねているのを目撃した。それは、彼女の息子が彼女の枕を間違って持ち去っていたからだが、そのために眠れなくなっていた。いらだちは病気の重大性から十分理解できるが、この時、彼女自身、自分がおかしいのではないかと気がついた。そして私に何か処方してくれないかと頼んだので、精神科医と相談してプロザックを処方することにした。

しばらく様子を見ていたが、1ヶ月を過ぎる頃から目に見えて変化が現れた。髪の毛もきれいにとかし、皮膚の傷も消えて、血色も良くなった。しかし悲しい気分は変わっていないと言う。ほとんどをベッドの上ですごし、症状がずいぶん改善しているように見えるが、主観的には大きな変化はないと言う。すなわち皮膚の傷は治したが、愛の欠陥はそのままであったということだ。普通の読者なら、ドロシーの鬱状態はセロトニンとは関係がないと言うであろう。癌という診断があまりにも過酷であり落ち込みは当然であるからだ。

ここで心臓発作を考えてみよう。心臓発作は慢性的な高血圧、悪性のコレステロールの蓄積、喫煙等、各種の原因から起こりうる。しかし、アスピリンを処方すると全ての心臓発作に有効に作用する。心臓発作は原因が違っても大体同じ経路をたどるからだ。直接の原因は肺動脈の血管内に血液の塊ができるためだが、アスピリンはこの血液の塊の成長を阻止する働きがある。私が習った教授は良く「アスピリン投与は簡単だ。患者のこれまでの経緯を調べる必要がない」 と言ったものだ。
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