鬱の新しい理論 5

海馬の神経細胞の再生と感情には何か関連があるのであろうか。ケージ等は、ねずみの生活環境を突然変えてみたり、巣を取り外したりして慢性的にストレスを与えると、どう行動が変わるか調べた。すると、ねずみは人間と同様、不安や無気力の症状を示すようになり、人間の鬱状態に近くなった。このような状態のねずみでは、海馬での神経細胞の生産は急減していた。
その反対に迷路や、巣の材料、おもちゃ等を与えて豊かな環境にすると、彼らは活気を取り戻し、好奇心旺盛になった。豊かな環境が抗鬱剤の役割をしたわけだ。その豊かな環境のねずみの脳を解剖して調べると、海馬に多くの再生された神経細胞を発見した。

コロンビア大学の神経学者であるリーン・ヘンは、ケージの研究に興味を持ち、プロザックと脳神経細胞の再生の関連を調べることにした。ねずみの神経細胞の再生には2,3週間かかるが、抗鬱剤が効果を示し始めるのもそれくらい時間がかかる。プロザックの効果発揮は神経細胞の生産と関係しているのであろうか。

彼はプロザックをねずみに与え様子を見ると、数日後に行動が変化し、不安の症状が和らぎ、より積極的になった。新しい環境でも食物を探し、環境に順応した。ケージが発見したように、海馬で新しい細胞が再生産されているのも確認した。しかし、海馬での神経細胞の生産を選択的に抑制すると、新奇を求める行動や食べ物探しが消えた。ここにプロザックがもたらした鬱改善効果は、海馬で再生された神経細胞のおかげであるのが証明された。
2011年、ヘンはこの事実をサルを使って試してみた。サルを慢性的ストレス下に置くと、驚くほど人間に似た症状を呈し、喜びを失い無気力になる。海馬を見ると神経細胞の再生速度が落ちていた。サルに抗鬱剤を与えると落ち込みの症状は緩解し、神経細胞の再生も戻った。

ヘンの実験は、プロザックのような抗鬱剤は、脳内のセロトニンの量を一時的に増加させるが、増加の効果は新しい細胞が再生されて始めて出てくると言う、精神医学に大変重要な意味をもたらした。

鬱は、神経細胞の死で発症しているものなのであろうか。アルツハイマー病では、実際脳が退化がしているし、パーキンソン病でも動作に関わる脳で神経細胞が劣化している。すると鬱病はアルツハイマーの感情障害版ということであろうか。こうなってくると我々の言葉もあやしくなって来て、ボケとは思考の退化であるが、感情の退化に対する言葉はない。

我々は、脳の神経細胞がマイクロ電気回路を形成し、行動を指令していると教わってきた。一連の神経細胞が手を動かす信号を受け取り、それを他の神経細胞に中継する。最終的に筋肉に信号が電送されて手が動く。この回路が妨害されれば手が動ごかないのは簡単に理解できるが、神経回路がどうやって感情を支配するのであろうか。

神経回路がストレスに対処する方法を教えているのだろうか。神経回路が我々が慢性的にストレス下にある時や、死に直面した時に鬱状態を誘発するように我々を導いているのであろうか。神経細胞の死、即ち回路の破壊によりウォーツェルが書いたような死の空想に突き進むのであろうか。
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