鬱の新しい理論 6

では、神経細胞の再生がどうして感情障害を治すのであろうか。神経細胞の再生がどうバイタリティーを回復して、環境に順応するようになったのであろうか。プロザックやゾロフトが、その効果を現すのに2,3週間かかるのは、細胞再生にかかる時間のためなのであろうか。もしこの疑問に対する解答があるとしたら、エモリー大学の神経学者であるヘレン・メイバーグの研究がそうであろう。

メイバーグは鬱状態の脳で、活動状況を記す詳しい脳地図作りをした。この研究から、彼女は梁下帯状回(subcallosal cingulate)に注目した。(梁下帯状回とは、海馬の近くにある小さな神経束で、意識脳と感情脳を結ぶ導管の役割をしている)。メイバーグは、抗鬱剤に反応しない鬱病の患者の脳に小さな電極を差し込み電気刺激を試みた。すると75%の患者が実験中に強い感情の変化を経験し、心が和らぎ、むなしさが消えたと報告してきた。この刺激装置は患者の体内に埋め込むことができるから、心臓のペースメーカーと同じ役割をする。この装置のおかげで、患者は症状の緩解を数年経験している。

一見、メイバーグの実験結果はセロトニン理論を打ち消しているようであるが、セロトニンにも関係している。梁下帯状回は神経細胞に富んでいて、セロトニンに良く感応する。研究では、鬱状態のねずみの脳のセロトニン・シグナルを抑制すると、このペースメーカーはもはや作用しないのが分かった。

この実験から次の鬱病理論が登場した。あるタイプの鬱病では、遺伝子、環境、ストレス等が海馬の神経細胞の死をもたらし鬱病を起こしているのではないか。健康な脳では海馬の神経回路が梁下帯状回(梁下帯状回はこれらシグナルを統合中継して脳の意識中枢に送る)に適切なシグナルを送り、感情をコントロールしているが、鬱状態の脳では、海馬の神経細胞が死ぬため、送り出す信号に混乱が生じ、意味不明な不安、悲しみ、無気力となって現れるとする理論である。
「鬱とは意味のない感情の落ち込みなのです。健康な脳では感情の変化を経験をしたときに、それを意味づける必要があり、それが海馬です」とメイバーグはと言う。神経細胞が死んでしまった海馬ではそのシグナルがないので感情が暴走する。

我々は悲しみが増すとは言うが、幸せが増したとはあまり言わない。幸せは状態であるのに対して、悲しみはプロセスであることを意味している。科学でも、鬱を静的状態ではなく、動的状態と考えるようになった。最近の考えでは、抗鬱剤は、単なるシグナルの強化をしているのではなく、配線そのものを変えたり、新しく配線を作る作業をしているのではないかと考えるようになった。

画家のセザンヌがモネの風景画を見て、「モネは目だ。しかし何とすごい目だろうか」とため息をついたと言われている。その伝でいくと、「脳は神経伝達物質のスープに漬かっている。しかし何とすごいスープであろうか」の表現になる。
1 2 3 4 5 6 7